生命が発生したように、AIに自我が自然発生する可能性

きのう(9日)の個人的な読書体験を書きました。AIの未来に思いをはせる時、少しはお役に立てば。

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1年前に読んだ『E=mc2のからくり』(山田克哉著、講談社)を読み返していたら、前回、全然気にならなかった個所に目が行った。

単なる物質が生命に

この個所だ。とりわけ最後の「なぜかそこに”生命”が発生するのです」の一文に脳が反応した。
「内部構造のない個々の素粒子は「生命体」が発揮するさまざまな性質をいっさい持ち合わせていません。個々の素粒子は「生きている」とはとてもいえない状態なのに、たくさんのフェルミオン(物質素粒子)が集まってボゾンによって糊づけされた「細胞」が構成されると、なぜかそこに”生命”が発生するのです」(15㌻)。

その前の個所で、どんな物質も二種類の素粒子--フェルミオン(物質素粒子)とボゾン(フェルミオンをつなぐ糊づけ素粒子)--で構成されていると説明したうえで、人体は37兆個の細胞作られているが、その細胞の一つひとつも当然ながらフェルミオンとボゾンでできていると前置きしている。つまり、単なる物質である素粒子が集まるとなぜか生命(細胞)に変貌することを書いているのだ。

本の冒頭に書かれており、本論に入る前の助走的な位置づけで、読み飛ばしてもそのあとの内容を理解するのには困らない個所だ。それがなぜ今回、ひっかかったかというと、直前に読んだAIの本の内容と結びついたからだ。

閾値を超えると自我が生まれる

その本(『強いAI・弱いAI』鳥海不二夫著、丸善出版)でAI研究者がインタビューでこう発言している。「人が与えない限り自我が発生しないのであれば、私たちは安心してAIをどこまでも賢くできることになります。しかし、閾値を超えると自然発生的に自我が生まれるのなら、私たちが自我のあるAIを求めないのであれば、抑制的な開発を考えなくてはいけないことになります」(18㌻)。

発言者は松原仁・公立はこだて未来大学教授。2014~15年に人工知能学会の会長を務めたというからAI研究者の大御所と言っていいだろう。自我について語っているが、これはAIが発達すると、心を持つAIが誕生するだろうかというテーマを論じているからだ。

AIが心を持つ--ドラえもんや鉄腕アトムのように人類を助ける存在ならばいいが、一方でAIを警戒する感情も根強く、映画ターミネーターのようにAIが人類を支配するストーリーはフィクションの定番でもある。

ディープラーニングはそこまで機能しない

自我、心を持つAIなんて、遠い先のことで想像をふくらませたこともない。それよりも世の中の関心は、AIが人間に代わって仕事をしてくれる(仕事が奪われる)ことだろう。遠い先のことではなく、足下に迫っている。

この「遠い先」という感覚は的外れではないようで、本に登場する別のAI研究者、山田誠二・国立情報学研究所教授も「あと30年ではAIが人間を超えることはないと思います。現在のシステムやアプローチでは、おそらく無理だと。ディープラーニングではもちろん無理ですし、ニューラルネットの構造では、複雑系を解析できるような数学の著しい発展があればともかく、このままでは無理でしょう。結局は、天才待ちだと私は思っています」(45㌻)と語っている。

いまはやりのディープラーニングも「機械にこれまでやらせようと思ってもできなかったことをかなりできるようにはなるが、人間は超えられない」ぐらいの相場観が妥当なのだろう。

松原教授も「AIが自我」発言の前には、「SF的な話ではあります」と断っている。まあ、AIの実力についての学者たちのそうした評価はよほどのブレークスルーがない限り変わらないに違いない。

そう思っていたところへ、たまたま読み返した冒頭の本に、「なぜかそこに”生命”が発生するのです」の一節を読んで、数十億年前に起きた「生命なき素粒子から生命へのジャンプ」が「生命なきAIから自我へのジャンプ」を連想させた。

素粒子のジャンプの際に、松原教授の言う「閾値超え」が起きたのかもしれない。AIのジャンプについては、松原教授は「それはマルチタスクの複雑さなのか、扱える情報量なのかはわかりませんが、ともかく何らかの閾値を超えると、自我らしきものが生まれるのではないかと想像しています」(18㌻)と語る。

松原教授の論はまだ全くの推測の世界である。しかし、もう少し現実的に見ても、いま生まれた子供が働き盛りになるころ「AIの人格」が論議されている可能性はありそうだ。

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