社会、人文科学の基盤をひっくり返すミラーニューロン 『経済学の宇宙』岩井克人

前回のBookで、1990年代に発見された脳神経細胞「ミラーニューロン」についてふれたが、その発見が、従来の人間観を変え、社会科学、人文科学の在り方を変える可能性があるという。日本の経済学界の大御所がただならぬ関心を寄せているのだ。

岩井克人・東大名誉教授は、著書(『経済学の宇宙』、日本経済新聞出版社)の中で、こう語っている。

「大多数の社会科学者や人文科学者は、まだノンビリしていますが、実は、これ(ミラーニューロン=引用者注)は、経済学を含む社会科学や人文科学にとって、その存在理由を奪いかねない大きな脅威であるのです。私は、この脅威を真剣に受け取っており、このような生物学の最近の発展が、これまで社会科学や人文科学固有の領域と考えられていた人間の社会的な行動をどれだけ説明することができるのかを、できるだけ偏見なく見届けておきたいと思っているのです」(同書28ページ)。

岩井氏は、生物学、特に脳科学の文献を片端から読んでいるという。

これ以上のことは書いていない。想像するしかないのだが、たとえば、経済学の分野ならば、近代経済学は、その祖であるアダム・スミスに習い、利己主義的な人間観を前提としている。

しかし、ミラーニューロンの発見によって、人間には、他者の意図を理解し、好悪の感情に共感する器官が脳に存在することがわかった。生まれた時から「共感機能」が備わっているのだから、人間は、もともと利他主義的性格が運命づけられていることになる。

利己主義的な人間観を出発点としている近代経済学の前提がひっくり返ってしまう--岩井氏の危機感は、そういうことだろう。

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 神経経済学も利他性を確認

ミラーニューロンだけではなく、人間の行動には利他性が左右するという結果が経済学の中でも、最先端の神経経済学の研究成果として出ている。

経済学では、「効用(満足度)」が人々の行動を決めるとされ、伝統的な経済学では、効用は利己的な報酬のみで測られることになっている。他人を思いやった寄付や公平な分配は、将来のお返しや、集団内での評価アップが将来利益として跳ね返ってくるからという解釈だ。

ところが、神経経済学により、利他行動は、将来の報酬を見込んだものではなく、単に心地よい(社会的報酬)からやっているらしいということがわかってきた。

そう推測するのは、利他行動から得られる心地よさと、金銭的な利益のような利己的な報酬の満足度を処理する脳の部位が重複していたからだ。

「これは脳が両者を同様の報酬と認識していることを意味する。つまり、人々の効用が従来のように利己的な報酬からだけでなく、社会的な報酬も含めて定義されても何ら不自然ではないことを示唆している」(『エコノミスト』2013年12月23日臨時増刊号84~85ページ、脳活動の分析で人間の「利他性」を発見 下川哲矢 5年近く前で、ちょっと古いですが、印象に残っていましたので)。

こうした研究成果により、効用の大きさを決める効用関数の中に、利己的な報酬だけでなく、「利他性」が導入するようになり、より人間のあり方に近く、精緻さが高まったという。

神経経済学は、脳内の血中酸化ヘモグロビン濃度をfMRI(機能的核磁気共鳴画像法)で測定するなどして、意思決定の際の脳の反応を探る。脳科学の発展が生んだ学問と言える。2017年度のノーベル経済学賞の候補リストの中にも神経経済学者が挙げられており(経済学101)、今後、世間の関心が高まっていくことだろう。