Book №1 ミラーニューロンと文字社会

「文字の発明が戦争の原因の一つ」。意表を突く考えだが、生物学者、池田清彦氏が唱える説には説得力を感じた。生物学者の間では、珍しくない説なのだろうか。

池田説が成立する背景には、遺伝子工学と脳科学の最近の飛躍的な進歩があるようだ。以下、『人口減少社会の未来学』(内田樹編、文藝春秋)に掲載されている池田氏の論文を紹介する。

まず、遺伝子工学。現人類のホモ・サピエンスのゲノムには先住人種であるネアンデルタール人のDNAが混入しているという(51ページ)。つまり、ホモ・サピエンスとネアンデルタール人が遠い昔に交配していた証拠である。

その交配について池田氏は、「ほとんどのセックスは合意の下に行われていたに違いない」(53ページ)と推測する。ネアンデルタール人は、体が大きかったので、「華奢なホモ・サピエンスの女が強姦されてしまったのだと考えることもできなくはないが」、そうなれば、ホモ・サピエンスの集団がネアンデルタール人を警戒して、寄せ付けなくなる。ネアンデルタール人のDNAも途切れてしまったはずだ。

では、言葉が通じなかったであろう、ホモ・サピエンスとネアンデルタール人は、どうやって、合意のセックスをするほどのコミュニケーションが可能であったのか?

ここで、脳科学の成果である「ミラーニューロン」が重要な役割を果たす。ミラーニューロンとは、他者の行動をあたかも自分が行動しているように働く脳神経細胞で、他者の意図を理解し、好悪の感情に共感する機能を持つという。1990年代後半にイタリア・パルマ大学の研究グループが発見した。

池田氏は、ホモ・サピエンスとネアンデルタール人が出会った当時は、「まだ文字言語がなく、コミュニケーションも情報伝達も対面で行うほかはなく、たとえコトバを使ったとしてもミラーニューロンが介在したに違いない」(54ページ)と見る。

ネアンデルタール人がひっそり滅亡し、ホモ・サピエンスが地上の支配者になり人口が増えてくると、多くの集団が狩猟採集から農耕へ進む道を選んでいった。「人口増→食糧増産→更なる人口増→更なる食糧増産のポジティヴ・フィードバックがかかり始めたのだ」(59ページ)。

狩猟採集社会では、「成員の数は制限され、成員間のコミュニケーションは音声言語とミラーニューロンで事足りて、文字言語を使う必要はなかった」(58ページ)が、農耕社会では、集団のまとまりが保たれないほど成員が増えるので、「集団を統制するために指導者が出現し、集団を統制するルールが造られ、ルールを記したり命令を伝えるための文字が発明された」(63ページ)。

そして、「文字は対面によるコミュニケーションを省いて、すなわち、ミラーニューロンを介さずに情報を伝達する手段であり、好悪や納得を抜きにルールや命令を守らせるためのツールとして機能した」(同)。

その結果、「農耕革命後の戦争は、ミラーニューロンが介在した個人間の憎悪とは無関係に、指導者の命令を順守する行動になっていった」。池田氏は、「文字がなければ、国家とか敵とか神とかの概念を捏造することもなかっただろうから、イデオロギーや宗教の違いに基づく戦争も発生しなかったであろう」(65ページ)と文字に絡み取られた人類の一面を指摘する。

確かに人類は、イデオロギーや宗教の旗の下、正当性を振りかざし、狂信ぶりを発揮する愚を凝りもせずに繰り返してきた。これからも繰り返すのだろう。だからといって、いまさら文字を捨てることはできやしない。人類社会に組み込まれた動かしがたい構造という感じだろうか。

ただ、ミラーニューロンの存在は、従来の人間観を大きく変え、社会科学、人文科学の在り方を変える可能性がある。次回のBookでは、そのことをちょこっと書いてみる。