ペリー元国防長官の悔恨 北朝鮮が普通の国に…

1994年の第1次朝鮮半島核危機の際、アメリカの国防長官だったウィリアム・ペリー氏の長文インタビューを朝日新聞が報道した

国際的な約束の反故を繰り返してきた北朝鮮だが、アメリカ側のアンチ北朝鮮の対応が反故に至った点も指摘している。

当時、米軍は開戦も辞さない構えで、ペリー長官が、在韓米軍に3万人の増派を提案している、ちょうどその時、「文字どおり、クリントン大統領が決定を下そうという数分前、(カーター氏から)連絡が飛び込み、クリントン氏が(米軍増派の)決断を下すことはありませんでした」という。

カーター氏とは、カーター元大統領で、特使として平壌に派遣されていていた。金日成氏と会談し、「プルトニウムの再処理を中止する用意がある」との発言を引き出した。まさに開戦一歩手前だったことを伝えている。

その後の「米朝枠組み合意」で、商業用原子炉の建設支援と重油の提供を見返りに、核開発は凍結されたが、北朝鮮は2002年12月に凍結解除を宣言する。

北朝鮮が約束を反故にしたのは、アメリカは、「北朝鮮がその産業力を高めるのを支援し、農業の発展や貿易協定、南北家族の面会」などを実施することになっていたが、「米国は何も実行しませんでした」ことが背景にあったという。これらの支援は、「ソフトな合意」と呼んでいたという。原子炉建設支援は「ハードな合意」と呼んでいた。

「大統領にそれができなかったのは、米議会で多くの議員、特に共和党議員が同意せず、枠組み合意への署名すら強く拒んだためでした。2001年に(共和党の)ジョージ・W・ブッシュ氏が大統領となり、試みたのが枠組み合意の破棄。それは2002年に現実となったのです」。

ペリー氏は、「もし米国がソフトな合意を実際に履行していても、(北朝鮮情勢が現状と)異なった結果になっていたかはわかりません」と慎重だが、北朝鮮自身も望んでいた「普通の国」にすることはできたかもしれないという悔恨がインタビューから読み取れた。

もうひとつの約束反故は、2003年の第2次朝鮮半島核危機で始まった六カ国協議の合意破棄だが、きょう朝、たまたま聞いた文化放送ラジオで、元外務官僚の佐藤優氏が破棄の背景を解説していた。細かな言葉づかいは異なるが、おおむね、こんな話だ。

「外務次官だった藪中(三十二)さんから聞いたが、バンコ・デルタ・アジアへの制裁で北朝鮮の口座を凍結した。これらは、金正日氏の口座でもあり、正日氏が過敏に受け止め破棄に至った。藪中さんは残念がっていた」

バンコ・デルタ・アジアについては、こちら

北朝鮮には北朝鮮なりの理由があったというわけだ。
ただ、ペリー氏も、「過去にも北朝鮮は合意を裏切ってきた。今交渉するなら、北朝鮮がごまかせないよう検証の仕組みを作る必要があるでしょう」と語っている。

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